人が人に苦情を言うとき。
きっと事実はどうでもよくって、
「【苦情の出来事】のように『自分は感じている』」
っていうことを、「理解してもらいたい」。
これが一番大きいのかもしれないな。
だから、特に責任とか保証とかがどうこういう世界でないときは、
本当は、事実の確認なんてあんまり必要なくて、
相手が提示する事実が、
どんなにおかしな事実であろうが、
間違った事実であろうが、
「あなたがそう感じた」
「あなたにとってはそう見えた」ということが一番の事実。
だから、最初は、「相手の見えた相手の事実」を、
訂正したり否定したり、
釈明したりは、
必要無いのかもね。
「相手の事実」なんだもん。
間違いのない、紛れもない、「相手の事実」なんだもん。
「そうなんだね。そう見えたんだね」
そこに、「私」は居ない。
相手の見えている世界を、
ただただ、ありのまま、
認める。
責められている人って、どこにも居ない。
居るのは、
「そう感じている人」。
そこには「私」は居ない。
困っている相手が、
私を責めている(と感じた)とき、
実はそこには「私は居ない」。
その人が見えている世界での出来事。
もし、事実の釈明が必要なのであれば、
それは、
相手が相手の見え方を、
すべて出し尽くした後、これ以上出なくなった後、
なのかもしれないな。
自分の存在がおびやかされていなかったら、
最後まで、
相手が自分の思いを出し尽くすまで、
聴くことができると思う。
自分の存在に自分が自信を持っていたら、
何人たりとも、私の存在をおびやかすことなどできない、ということを、
自分が自分の心に刻み込んでいたら、
相手の見え方は、相手の世界で相手が作り上げていることなのだと、
理解し、冷静に聴くことができるのだと、思う。