人は皆、「違うものだ」っていうことが分かると、
人と自分とが違っていても、
そんなに怖くなくなってくるんだね。
人と違うということに対して、「罪悪感」や、「劣等感」を感じなくなってくる。
そうなってくると、やっと、
人と違ってもいいんだ。人と違っても悪いわけじゃないんだ。
人それぞれが、自分の感覚を正直に認めたらいいんだ。
自分にしかない役割が、自分にはあるんだ、
ということが分かってくる。
そうなると初めて、
自分もマル、相手もマル。
形は違っていてもどっちともマル、だと思えるようになる。
「違い」を認めることが出来なくて、
どちらかが正しくて、どちらかが間違っている、
という感覚に支配されていると、
自分を守るために、
自分と違う人を「攻撃」してしまったりするんだね。
自分と違う人が○ならば、
自分が×になってしまうから、
一生懸命、
自分と違う人のことを悪く言って×にしようとする。
そうすることで、自分が○なんだということを、
「自分で自分に言い聞かせたくなる。」
そうしないと、不安だから。
自分に×をつけることになるから。
みんな違う、ということが分かるようになると、
わざわざ人と比べて、より優位に立とうとしたりしなくても、
平気になってくる。
自分の選んだもの、
自分の性格、
自分の好み
自分の生き方、に対して、
「言い訳」
しなくてもよくなってくる。
目的が、人と違っても、
罪悪感を持つことが無くなってくる。
人と違っていても、自分も人も両方○だから、
相手に、自分のやり方を認めさせようだとか、
相手にも、自分のやり方を分からせようだとか、
必死にしなくても、よくなってくる。
自分の正当性を、必死に解説して認めてもらわなくてもよくなってくるんだね。
分かってもらえても
分かってもらえなくても平気になる。
自分に対しても攻撃しないし、
相手に対しても攻撃しない。
「あなたは間違っている」って言われても、
「あなたは間違っている」って言っているその人のそのままを、
○にすることが、できるようになってくるのかもしれないな。
「あなたを間違っている」って言っている人のことを○にしたからといって、
私が×になるわけではない、という自信、安心感からかな。
気がついたら、自分の周りには、
敵が、いなくなるんだね。
みんな様相が違うけれど、みんな仲間。
人の悪口や陰口って、結局、みんな、
「自分と違うモノ」に対する恐怖から、
「自分と違うモノ」を×にすることで、
自分を○にするため行為なのかもしれんな。
自分と違うモノも自分も、どっちも○だったら、
敵は、いなくなるね。
人をわざわざ貶めなくても、
自分は誰からも虐げられたりはしない。
あぁ、なんだか、久しぶりに、
ブログを書く感覚が戻ってきた気がする。
やっぱり、私は、
私のペースで書く。
人のブログがすごいから、面白いから、
そんな風に書けなければ、
アップする意味がないような感覚がうっすら芽生え始めていたような気がするけれど、
そうだった。
私はそもそも、自分のために日記を書いているんだった。
人が面白がるか面白がらないかは、副次的なもの。
他の人がブログを書く目的と、
私がブログを書く目的が、
同じでなければならないわけではない。
どう意識を持っていった方が、生きやすいか、
人によって違うのだから、
「人のため」にブログを書こうと意識した方がうまく行く人と、
「人のため」にブログを書こうとすると、へんなこと(笑)になってしまう人と、
居るんだ。
それでいいそれでいい(^-^)。