『ドラゴン桜』で、現代文の解き方を説明してある場面がある。
答えは問題本文の中にある。
筆者の心をを予測したり、勝手に解釈したりするのではない。
国語は、答えが複数あると思われがちだが、
答えを自分が作るのではない。
「ウォーリーを探せ」のように、
答えを本文の中から見つけ出すのだ。
というような感じの内容。
これ、日常生活でも、
その通りなのかもしれない、と思った。
相手の気持ちを、
相手の心を、
予測したり、勝手に読んだりして、
自分が作るのではなく、
本人に聴かないと分からんで٩( 'ω' )و
ということ。
空気を読んだり、
自分がこうだから、相手もこうだろうと、勝手に想像しても、
たいてい外れているヽ(´▽`)/。
人も、自分と同じモノサシを持っているだろうと
思い込んでいて、
勝手に判断していると、
自分が一人で勝手に拗ねたり(≧w≦)。
誤解したり。
人は、自分の見たいように見て、
聴きたいように聴いて、
理解したいように理解するから、
放っておくと、
自分で勝手に好きなように解釈してしまうのかもしれんな。
現代文の問題文のように、
筆者が繰り返し、繰り返し、形を変えながら言っていることは何かな?
そこを探すゲーム。
国語の問題を解くときに、
そこに自分の感情や価値観やモノサシを挟む必要がないのと同じように、
人の価値観や話に向き合っているとき、
自分の価値化やモノサシでジャッジしないほうがいい。
国語の勉強は、
実は、話の聞き方の訓練でもあったのかもしれないなぁ。
著者との対話であり、
問題の制作者との対話。
客観的に物事を見る練習。
俯瞰して、事実を見る練習。
国語、特に現代文を学ぶ意味って、
あやふやだったり、人によって感覚が違ったりするけれど、
これは見事に解説してあって
面白かった。