自己満足で勝手に楽しむ日記

楽しいことの寄せ集め。

「みだりに人を師とすべからず」という吉田松陰の言葉

吉田松陰の言葉に、

みだりに人を師とするべからず

 というのがあるらしい。

 

最近、この言葉が何度も心に反復される。

吉田松陰の意図するところとは違うかもしれないけれど、

 

自分はここ数年、

「師」を、「正解」を、「依存先」を、「責任を押し付ける先」を、

求めては変えてきただけなのかもなぁ、と思った。

 

 

 

子どもの頃は、母親や先生や医者が師であり、動かぬ神のような存在のように思っていた。

絶対的に正しい答えだと。

信じて従っていれば、間違えは無いのだと。

 

それがそうではないと気づいたとき、

ショックだったし、今まで間違ったこと、嘘を、教えられていたのか!?
と、今までの師に、反旗を翻して、

真逆に走った。

 

そして、今度は、今までの師とは真逆の考え方の人たちを師とした。

しばらく、

昔の考え方は間違っていて、

新しい考え方こそが正しい、という考え方のもとに浸っていたら、

それはとても心地が良かったけれど、

 

その集団の形が変化し始めた時、

いや、自分の心が変化し始めた時なのかな。

ここもまた、だんだん、違和感を感じることが出てきた。

 

 

物事は、放っておいても、時代と共に変化するのが自然だし、

全く同じ状態というのは無いんだね。

自分も人も、少しずつ、何らかの形で変化をしていくんだね。

 

あれ?なんか、自分の本能の求めている所とは、

なんかズレが出てきたかも。なんか違う気がする。

でも、ここの世界の仲間と、一人だけ違う方向を向くのは、

この仲間たちを裏切ることになる。

師から離れることになる。

師を、「やっぱり違ったわ~」って、裏切ることになる、

そこに罪悪感や恐れを感じて、

 

本当は、なんか違う気がしていても、そこに入り続けなければならないような

気がしてくる。

これ、宗教や、族の世界(?)を抜ける時とかと同じような構図なのかもしれんな、と思った。

違和感感じても、一度入った組からは、なんとなく抜けにくい。

抜けるのに勇気が要る。

 

そうなってくると、今度は、

自分の感覚よりも、その集団の進む方向・

その集団の正解を自分の正解としなければならないような感じになってきて、

 

これ、なんか違う!!!!

 

って思ったんよね。

 

 

みだりに人を師とするべからず。

 

「正解」を、人に求めて居続けている限り、

「正解」と「不正解」がある世界からは、抜けられないのかも、と思った。

 

師を、誰であるか、変えるだけであって、

やっていることは同じだった。

正解を、どこに持って行くか、変えているだけ。

だったのかもしれないな、と。

 

どこかの派閥に所属して、そこの正解こそが正解!

っていう姿勢を取るやり方をやり続けている限り、

正解の判断は、「自分」ではなく、「師」やその集団が持ち続けている、

ということになる。

 

そうなると、その集団に「所属」するために、

師や集団の顔色を伺い続けることにもなる!!

と。

自分の違和感押し殺して、集団に従う。

自分の「心地良い」を見ないフリして、みんなと同じ方向に進む。

 

 

これなんか違うな、と。

 

 

主体は自分にあって、

自分が、どこかの集団を選び取っている。

どこかの集団に所属する自分も居る、

というスタンスでいいのに、

 

それが逆になって、

集団の所属がありきで、その中に、自分が居る、という構造になると、

自分の意志はなくなってくる。

これ、一番最初の、

親や先生が神だった頃と、同じ構図。

 

神や師の言葉が絶対で、

神や師に嫌われないよう、怒られないよう、好かれようと、

顔色を伺うようになったら、

ちょっとこれは、おかしなことになっているのだと。

 

まぁ、両方経験して、やっと、中庸に戻るのかもしれないけれどね。

 

 

 

健康法でも、あらゆる方法があって、

合う人も居るし合わない人も居るし、

A健康法とB健康法は真逆の事を言っていたりすることもあるし、

A健康法とB健康法で共通して言っていることもある。

A健康法の信者になって、なにがなんでもA健康法だけをやるのではなく、

A健康法とB健康法の重なり合った部分だけをやってもいいし、

たまにはB健康法をやってみてもいい。

何が合うか、その答えは、自分の体しか教えてくれないもんね。

そうやりながら、自分に合う健康法を見つければいい。

 

A健康法をやるために、自分は生まれたわけではなく(笑)。

自分が健康になるために、健康法があるのだから。

 

誰かを絶対的な師や神のようにしたり、
どこかの集団を絶対的な「正」としてついて行くことにしていると、

人が「正解」を提示してくれるから自分で「正解」を探す必要もない。

それを信じさえして従っていれば自分で考える必要が無い。

それはある意味とても楽なのかもしれないけれどね。

 

そのやり方が合えば、それもいいのかもしれない。

そこに違和感を感じた時点で、

自分は、違うんだな、と思った。

 

 

うまくいかなかったとき、

師のせいにして、騙された!と、師を変えるだけになって、

何人も過去の師を「騙し人」(笑)に仕立てるのは

なんか気分が良くないなぁと思ったとき、

 

過去の師は過去の師で、

自分はそこを晴れて「卒業」しただけなのかもしれないな、と思ったら、

過去の師も、ありがたい一つの手段として、

共に生きた貴重な存在として、いつまでも気持ちの良い存在で居続けることがdできるのかもしれないな、と思った。

 

そこに「依存」しないこと。

依存するから、嫌われたらどうしよう!!と、顔色を伺うようになる。

 

自分が勝手に「下」に行くから、上下関係が生まれる。

上も下も無い、もともと、お互い共通の目的や理念で繋がる対等な存在なんだね。

 

ほんと、みだりに人を師にしたり、人の師になったり、

するべからずだなぁ、と。

 

この、上に行ったり下に行ったりしている世界も、

自分が勝手に作り上げているんだろうね。

自分の知らないところでも、人は勝手に、違づいたり離れたり好いたり嫌ったりしているのだろう^^。

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