ちょっと、最近の、佐伯和也さんのメルマガ、
秀逸な分、長文に磨きがかかっていらしていて、
私の頭の中、ふわふわしそうになってきたから(笑)、
【保存版】自己受容は結局、これをしていくこと
https://kaihou.biz/BackNumber/view/MdHayfBI/AnzAu0VJ/e6NMKVDz
自分の理解のため、
自分の整理のために、理解したことをアウトプットしてみるね。
内容は、いつも心屋さんが、
「なんかしらんけれど」そうなる、
と、言っていることを、
論理的に説明した感じ。
あぁそういうことだったのか!と、
「なんやしらんけれど」が「なんやしらんけれど」じゃなくなったかも。
原文の書き方からは大きく違う感じに書いたけど、
私の理解の仕方はこんな感じ。
すっごく合点がいった。
**
禁止していることを、さらに禁止したり責めたり叱ったりすると、
禁止していることを止めることが出来るどころか、
「さらに悪化する」ことがあるのはなぜか。
それは、「罪悪感」にエサを与えている状態になっているから。
「罪悪感」にエサを与えないで、
「罪悪感」を取り除いて、
何を選んでもOK。
全部OK。
な状態に置いたとき、初めて、
じゃぁ、どうしたい?と「自分で主体的」に決めることが出来る。
これがまず、ゼロ地点なんだね。
何を選んでもOK、
どんな自分もOK。
ダメダメで破滅した自分もOK。
すがすがしい自分もOK。
って、まっさらの
全てOKな状態になったとき、
わざわざ、自分を破滅に持って行く選択をするか?と言ったら、
あんまりしないかもしれんな。と。
仮に、そのときも、自分を破滅に導く選択をしたとしても、
もともと、それもOKなのだから、その選択もOKだしね。
これが、私が受け取った結論。要点。
では、その
「罪悪感」にエサを与えている状態、の話について。
禁止していることを、さらに禁止したり責めたり叱ったりすることについて。
そもそも、なぜ、
禁止していることや好ましくないことをやるのかというと、
「罪悪感」があるから。
「罪悪感」がある状態というのは、
「自分は責められなければならない」という「義務感」を感じている状態。
なんとしても、自分は責められ「なければならない」(><)と思っている。
そうなってくると、
・「責める理由を作る」
・「責める材料を見つけてくる」
を、やりたくなる。
わざわざ、自分は責められることをやりに行ってしまう。
そうやって「罪悪感」を満たす。
「罪悪感」というものは、中毒性があるので、
一回満たしたら終わりではなく、
「自分は責められているのが普通」になってくる。
そしたら、「責められていないのは異常だ」と感じて、
わざわざ、また、
・「責める理由を作る」
・「責める材料を見つけてくる」
を、やりたくなる。
このループ。
だから、このループを断ち切るためには、
一旦、
その、禁止していることや、好ましくないことに、
OKを出してあげる必要があるんだね。
OKを出して、そこへの罪悪感を失くすということ。
これ、好ましくないこと、というのに「暴力」とかを当てはめてみると
分かりやすいんだけれども、
これを全く真逆に考えて、
「好ましいこと」で当てはめても同じことよね!と思った。
例えば、
自分は自己肯定感が高くて、幸せで楽しいのが当たり前、の人だと、
・自分が幸せである理由を作る。
・自分が満たされる材料を見つけてくる。
を、やりたくなるよなぁ。
どちらにしても、
どんな自分もOK.
キラキラしたことを選ぶ自分も、
ダメダメなことを選ぶ自分も、
OK。
そのゼロ地点に自分を置いたとき、
自分で自主的に、生きることが出来る。
それが、「遊びの解放」ということでもあるんだなぁ。と。
どんな自分にもOKを出して、何でも選択できる状態に持って行くということ。
ここから、全てが始まる。ゼロ地点なんだろうなぁ。