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自己満足で勝手に楽しむ日記

楽しいことの寄せ集め。

岡山STEP/TEEN2巡目 第4章その1 どういう前提でいるかということ

岡山STEP/TEENの第4章。

第3章に引き続き「勇気づけ」の章だけれども、

最近、私は、「勇気づけをしようとする」こと自体にも、

なんか違和感を感じるときがある。

 

相手を勇気づけよう!

っていうときって、

どこか、

「相手を勇気づけなきゃ!」=相手はまだ勇気づけられていない

っていう前提があるような感覚があるのか、

相手を「どうにかしよう、どうにかしてあげよう」感が、なんとんなく拭えなくて。

 

この人は既に素晴らしくて能力がある」、

と思っている相手には、「勇気づけをしよう」とかわざわざ考えなくても、

自然に言葉が出てくるものだから、

 

かえって「勇気づけをしなきゃ!」とかって

考えない方がいいのかもな、と。

今の私に関してはね。

 

「勇気づけをしなきゃ!」よりも、

「この人は素晴らしい人だ」「能力がある人だ」と思って接した方が、

こちらも肩に力が入らないし、

気持ちがいいような気がした。

 

 

 

 

 

 

それに関連して。

 

自分のエピソードを人前で話すとき、話した後、

私はどうもいつも、落ち着かなくてモヤモヤしていた。

 

こうして「書く」のには平気なのに、

なんでしゃべるとモヤモヤするのか、

 

それは、「書く」分には、自分の言いたいこと、表現したいことを、

後から遡りながらでも、訂正しながらでも、

くまなく表現することができるけれど、

 

私は、しゃべる分には、その10分の1くらいしか言葉にできず、

あれも端折った、これも端折ってしまった。

でももう最後まで話してしまったから追記(笑)できなくて、

まぁ、しょうがない。

で、自分を表現しきれなかった感が、自分の中に残るんだ(笑)。

一対一の対話ではそれほどでもないけれど、

大人数の前でしゃべると、そんなことがよくある。

 

人によっては、それが逆で、書くよりも、しゃべった方が自分を表現できる人も

いるんだろうな。

 

それで、私は、うまくしゃべれないもどかしさにモヤモヤしていたんだけれども、

 

 

もう、それも、いいかな!と、思った(^0^)。

 

 

上手く喋れなくて、10分の1しか表現できなくても、

またここ(日記)で書けばいいし(笑)、

聴く側は、たぶん、私の話を100パーセント全部聴いてもらわならないわけでもなく、

10分の1しか聴いていなくても、その中から、それぞれが、

受け取りたいものを、

受け取りたいだけ、

受け取りたいように受け取ってくれるだけだから。

 

表現しきれなかった!!って悔やんでいるのは私だけ(笑)。

 

文章で書けば、この10倍ぐらい面白い表現で書けるのに(←勝手にすごい自信だけど・笑)、

口でしゃべると全然面白く伝えることが出来ないもどかしさ!!(笑)。

いや、この話、もっと面白いし、もっとボリュームのある話なのよ!!

って思う瞬間があって、ものすごくもどかしいんだけれども(笑)、

もう、私は、そういうものだと思って、諦めよう(笑)。

 

私は、書くほうで表現する(笑)。

 

喋るのは、自分の専門外だと認識して、

他の人に譲るか、

上手く表現できなくても、

そんなもん。

だと思って、居直るわ(笑)。

 

 

 

上手く表現できなかったとき、何をそんなにモヤモヤしているのかと言ったら、

私が気にしていたのは、

「相手がどのように受け取ったか」、

って部分なのかもしれない。

 

自分で充分表現しきった!と思える表現ができなかったから、

中途半端に伝わって、

・相手が誤解しているのではないか、

・私の伝えたいような形とは違う形で受け取っているのではないか、

 

という、恐れ。

 

でもこれ、そもそも、よく考えて見ると、

私が十分に満足するような伝え方をしたところで、

それでも、

・相手が誤解しないように

・私の伝えたいような形と同じような形で受け取ってもらう

のって、至難の業で、もしかしたら、究極を言うと、完全一致することは不可能なことかもしれない。

 

みんな、それぞれが、

受け取りたいように受け取るのだから、

 

伝わっているかどうかに、こだわる意味は、あまりないのかもな、と思った。

 

・悪いように解釈されるかもしれない。とか、

・私の言葉が足りなさすぎて、上から目線だと思われたらどうしよう。

とか思って恐れているということは、

 

相手のことを、

・悪いように解釈する人で、

・上から目線だと思うような人

だという前提でいる、ということ。

 

そっちの方が、ずっと相手に失礼かもな!と、気づいた。

 

 

 

冒頭で書いた、

相手の事を、「勇気づけの必要な人」という前提で接するのと同じで、

 

相手の事を、「言葉足らずだと悪いように解釈してしまう恐れがある人」という前提で接しているということになる。

 

その方が、ずっと感じ悪かったかも!!と(≧w≦)。

 

 

 

 

少々表現がおかしくとも、

言葉足らずであっても、

いい塩梅に受け止めて、いいように解釈してくれるだろう、

という信頼感、安心感。

 

 

私が、ここの集まりに通っているのは、

それを体感する為でもあるのかもしれない。

 

何をどんな風に表現しても、表現し足りなくても、

失敗しても、

誤解されるような表現をしてしまったとしても、

全部ひっくるめて、

いい具合に受け止めてもらえる!!

 

という安心感。

 

相手のことを変えなければ!

とか、

相手にこう思わせなければ!

 

とか思って頭でごにゃごにゃ考えならが、

操作しようとしたり、

 

言葉の裏や、さらに裏の裏を読もうと頑張ったりすると、

非常に疲れる(笑)。

 

 

そもそも、変えなければならないダメな人って、

私の周りには誰もいないのだから、

そんな人は、私の周りには配置されないことになっているのだから(笑)、

 

 

相手をまるごと信頼して、

「この人は能力がある」

「いい具合に受け取ってくれる」

って思って、

 

安心して接したらいいだけのことかも!ヽ(´▽`)/と思った。 

 

どういう前提でいるか、どういう在り方で居るか、

小手先よりも、

そっちの方を、今は意識していたいと思った。

 

 

 

 

 

アウトプットその2へ続く。 

 

 

 

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