岡山STEP/TEENの2巡目。「問題解決の模索」の章。
章は「問題解決の模索」だけれども、
今回もまた、主題とはちょっとズレたこと(笑)を勝手に学んできたよ(*'ω'*)。
まず第一に、
今の私には、「問題解決の模索」は、要らない。
ということ(≧w≦)。
これ、無理。私には、無理(*'ω'*)。できない。
これ、私の役割じゃない。
気持ちを聴いて、
問題点を一緒に探り出して、
ブレーンストーミングして、
どれが良いか一つずつ、一緒に検討していく作業。
これを私がやろうとすると、自分も相手も変なことになる!ヽ(´▽`)/笑
というのは、経験済み。
そもそも、できはしないけれど、
やろうとするだけで、
変なことになってまうんだ!ヽ(´▽`)/
これ、出来る人は出来るんだと思う。
こういうのが得意な人、向いている人、
そして、私も年月を経たら、将来、出来るようになる日が来るのかもしれないけれど、
今は、その時ではない、と思う。
やろうとすると、必死で、解決しなきゃ!ってなってしまうんだな。
一瞬でも、やってみようかな!って心が動くと、
私は、変なことになるんだな!!(*'ω'*)。
私は、一番最初の、「話を聴く」だけで、精一杯。
話を聴く、でさえも、自分の心をフラットに保てないことがよくあるのだから。
その先を目指そうとしなくて、もう、私は、
そこで止めていていい、
その方がいい、と思った。
それに、
私、問題をわざわざ探したくない
って思った。
「問題解決をする」ためには、
そこに、問題がある必要がある。
わざわざ、問題を「持ってこないと」、問題って発生しないのに、
わざわざ問題を探し出して作り出してくるなんて、
そんなこと、しなくていい!!
って気づいた。
注目したものって、増えるよね。
演習項目で、
問題解決の練習をしよう!というのがあって、
無い所から、わざわざ問題を探してくることになって、
なんか、その時、そこに、違和感を感じたんだ。
問題って、わざわざ作ろうとしなくていい!!!!
練習だとはいえ、問題をわざわざ探そうとする行為が、
悪い所探ししているみたいで、なんか気持ちが良くない!!
って思った。
(これも、この演習のねらいでもあるのかもね)
それでね、この、問題解決の模索、
できない私が無理にやろうとしなくても、
出来る人もちゃんと、居るんだよね。この世の中には。
だから、この役割は、
その方たちにお任せしよう、と思った。
そして、
「問題をわざわざ作り出す」に関して、もう一つ気づいた。
自分がとっても楽しくて幸せで、ふわふわお花畑気分で居る時(*'ω'*)。
あまりにもお花畑過ぎて、
これでいいのか?
こんなに喜んで大丈夫なのか?
浮かれすぎではないのか?
こんなに楽しくしていたら、妬まれるし、いつか誰かに刺されるのではないか←笑
と
喜びを、抑えよう抑えよう、
いや、こんなに喜んではいけない、
こんなに喜ぶ私、いけない!!!
ってわざわざ罪悪感にまみれようとしたことに!!
とっても幸せなはずなのに、
朝、目が覚めた瞬間、なんか、異様な罪悪感があるんだ。
ナニコレ!!!!!
って思ったわ。
幸せになることへの恐怖感。
幸せを味わうことへの罪悪感。
それが、まだどこかに巣食っている。
自分の中に、恐れがあって、
強力にブレーキをかけようとしている。
人を信頼しきれなくて、恐れている。
それでも、大丈夫だよ!って手を拡げてくれる仲間がいてくれて、
え?ほんと??大丈夫??・・って、恐る恐る、洞窟から抜け出して行っている感じ。
大丈夫でないことに遭遇しても、
気にしなければいい。スルーすればいい。
たとえ2割の脅かす存在が出てきたとしても、
残りの8割は大丈夫。
脅かす2割のために全力を使って生きなくても、
大切にしてくれる人たちと共に生きればいい。
まだ、脅かす2割には遭遇してさえもいないんだけれども(笑)、
まだ遭わぬ敵を勝手に作り出して怯えていた。
***
ディスカッションの中で話題にも出たけれど、
「あの人を、怒らせてしまったのではないか」、
「嫌われてしまったのではないか」、
と怯えること。
それ自体が、
恐れの世界を作り出しているということ。
STEPの集まりに行っていつも思うのは、
少々発言を失敗したりヘマしたしたけど(笑)大丈夫!!
って思えること。
自分もみんなも、みんな失敗して、
変なこと言ったりもすることもあっても、あの仲間なら、
大丈夫!!
って思うこと。
まぁ、良い具合に解釈してくれるから、
大丈夫だし、何も問題ないや!!って思えること。
それが、大きいな、と思った。
先月言ったこと、間違っていたと思ったら真逆に撤回しても別にいいし、
撤回しなくても、そもそも、他の人は覚えていなかったりする(*'ω'*)。
そんなもの。
言葉にした後で、あれ?ああは言ったけれど、
自分の気持ち、全然違うぞ、むしろ真逆だぞってこと、よくある(笑)。
それは、言葉に発してみて初めて気づくことだったり。
結構、みんな、そんなものなのかもしれんね。
* * *
それからもう一つ。
人に勧められたれたことを断るとき、人と好みが違うとき、
妙な罪悪感があったんだけれども、
だんだん、「断ること」の意味が分かるようになってきたような気がする。
人を勧められたものを、
断るのは申し訳ないとどこか思っていて、
断りたいときは、
断らざるを得ない理由を一生懸命ぐだぐだ説明したりしようとしていたけれど、
なんか、ふと思った。
やりたくない人、あまり気の乗らない人に、
「つきあい」という気持ちだけでだらだら参加されると、
誘う側は、かえって迷惑だし、覇気を下げてしまうのだと。
乗り気でないのなら、あっさり断った方が、
相手も助かるのだということに。
断ったことに、引け目も罪悪感も、要らない。
自分の好みに罪悪感を持つ必要って、そもそもない。
断ったからと言って、そのことに、相手はこれっぽっちも
責め感を持っていない。
相手に気を遣って、
自分の気の乗らないことを、
自分を犠牲にしてまでやらなくてもいい、ということ。
それは、相手に気を遣えているどころか、
かえって相手に迷惑だということ。
私、人と好みや考え方が違うとき、
自分は変だから(←笑)と、こんな自分の方が間違っている、と、
どこか思う節があったけれど、
変な自分!!!これもあり!!
と、開き直っていいんだと。
変な自分と、人とが合わない所があっても、
合わない所で自分を犠牲にして無理に合わせようとしなくても、
合う所で合わせればいい。
全部が全部、好みも考え方も同じ人って、
この世にはいないのだから、
合う所で一緒に楽しめばいい。
自分の「心地よい」を否定しなくてもいい。
相手の「心地よい」も否定しなくていい。
どちらかが快適を犠牲にして、
どちらかが我慢をしてまで、
無理して合わせなくても、完全でなくても、いいんだ。
ということ。
STEPの講座を、
受けたセミナーが言っていることを、
完全に理解して全部実践しようとしなくても、いいんだ(←笑・しようとしていた)、ってこと。
自分の世界は、
自分の都合の良い世界は、自分が作ればよいだけのこと。