いつものごとく、章立てとは関係なしに(^0^)、
自分の感じたことをメモ。
気が付いたら自分は、
ほんと、「嫌なことって、何もやっていないよなぁ」と思った。
これは、最初の頃は「意図的」に考えていたような気もするけれど、いつのまにかにそれが当たり前のこととなっていた、という感じ。
岡山から帰って、いつものように私が、しきりに、
「楽しかったヽ(´▽`)/楽しかったヽ(´▽`)/」
と言っていると、
夫が、
「●●さん(=私のこと)は、自分のために生きる存在で、
自分と▲▲(=息子)は、自分のためには生きられない存在なのです(^-^)」と言っていた(笑)。
これ、まさに、男女の陰陽。
私は、わたしのご機嫌だけを意識して生きれば生きるほど、
勝手に周りを幸せにするけれど、
私が、ひとたび「人のため」とか思い始めると、
何かがガラガラと崩れていく。
おかしなことになる。
これを、何度も何度も体験した。
だから、もう、諦めて、開き直って、
私は、私の心地の良いことだけをする、と決めた。
そしたら、物事が、上手い具合にばかり回り始めるようなった気がする。
以前、物事の判断基準は、
・第一に、「世間と同じか?常識的か?」
であり、
・第二に、「お金が得するか?モトが取れるか?」
だったけれど、
それを取っ払って、
「自分が心地よいか?やりたいか?得意か?」
に、いつの間にかに絞るようになっていた。
そしたら、
気づいたら、嫌なこと、何もやっていなかった。
もちろん、やりたい度数が、10マックスのものもあれば、
やりたい度数が1ぐらいのものだったり、
そんなにやりたいわけでもないかもしれないけれど、やらなければならないこともあるかもしれないけれど、
そんなにやりたくないかもしれないことについても、
「自分が選んでやっている」
と意識してやっているから、苦痛ではない。
「自分がやることを決めて、やっている」
のだから、嫌な気分にはならない。
人にやらされて嫌々やっていることって何もない!と、堂々と断言できるくらい、
嫌なことって、何もやっていない気がする。
昔、前職の転職を迷っていた時、夫に、
「やるなら文句を言わずにやれ、文句を言うなら辞めろ」
と言われ、
とても文句を言わずにいられない状況だったので、辞めた。
なんて厳しい考え方なんだ、まさに、男の世界で、
女の「気持ち」の部分を無視している、と一瞬思ったけれど、
この言葉は、その後もずっと、もっともだと思って私の中にずっとある。
そうなんだ。
文句を言わなければやっていられないような事柄は、
そもそもやる必要がない。
やらなくていい。
やれる役割を持つ他の人に、譲ればいいんだ。
人に譲れなくて、どうしても、やらなければならない事情があったりして、やることを選んでいるのなら、
それは、自分が何かメリットがあって
「選んでいる」ことなのだから、
やるのなら、自分は、「選んでいる」と自覚する。
そうしたら、自分の中に、
人にやらされていること、
嫌々やらされていること、
って、無くなるんよね。
自分を幸せにするのは、自分。
自分に何を与えるか、与えないか、
決めているのは、他でもない、自分なんだということ。
だから、見るべきは、
世間の常識、ではなく、自分の心、
だということ。
自分に聞く、ということ。
自分の不得意なことは、
それを難なくできる人、それをやりたくてたまらない人、それをするのが大好きな人が、必ずいる。
それなのに、やりたくない人が握りしめてやっていたら、勿体ないよね(*'ω'*)。
なんとなく思ったのだけれども、
何事も、「自分がやりたくてやっている」、
と思ってやっていると、
人に、「(この苦労を)分かって欲しい」って、
思わなくなってくるのかもな、と。
テキストを用いたディスカッションの中で、
主導権争いのときに「Iメッセージ」を使うと、「相手を分かりたい」よりも「自分を分かって欲しい」が前面に出て、
ますます主導権争いがひどくなる、
というような話をしたのだけれども、
自分が常にご機嫌だったら、
人に自分の努力を、苦労を「分かって欲しい」
って思うこともないよな、
と思った。
「こんなに頑張ったのに!(報われないなんてひどい!!)」って、押し付けることもないだろうしね。
成果が出ようとも出なくても、
やっていること自体を、
納得しているし、楽しんでいるからね。
私、講座の初期の頃、
講座を受けるのならモトを取らなければならない!!成果を出して、人に貢献しなければ!
って思っていたから(笑)、
どんな話でも人の話を「聴ける」ようにならなければ!!!とか、
人を救う、助ける、お手伝いを私も!!
って、結構、必死に思っていた(笑)。
でも、長年色々やっているうちに気づいた。
それ私の得意分野じゃないし、
私の役割ではないかも、と。
それをやっている自分は、
大好きな趣味をやっているとき以上にウキウキして、
幸せがあふれ出るか?それは、私の得意分野で、頑張らなくても自然に出来るようなことか?と言われると、
今はそんな気がしない。(将来はどうか分からんけどね。)
だから、これは、今は私の役割ではないのだと気づいた。
いい意味で、諦めた(笑)。
役割というものが、あるんだ。
そしたらすごく楽になった。頑張らなくてよくなった。
「聴く」についても、聴けない話は聴かなくていい。
聴きたい話を聴けばいい。
これも、何度も教わったけれど、なかなか腑に落ちなかった。だってテキストには、
「聴く」って大事ですよ、としか書いていないように見える(笑)。
長年、周りを見ているうちに、出来る人は、「聴く」「聴かない」もきっちり選んでいるし、聞き流せたりしている。それでいいのだ、それがいいのだと、やっと腑に落ちるようになってきた気がする。
私は、人のためにブログを書いているわけでもない。
自分の心の整理のために書いているけれど、
これが私のスタイルで、これでいいのだ。
これがね、人のために、人に理解してもらうために書かなければ!ってなると、
とたんに、私は、何か違う物になる。きっと(笑)。
これが、自分なんだ~ということ(^-^)。
自分は、自分の役割(好きなこと得意なこと)をやっていれば、
いいんだ、ってこと。
***
それから、
「成功と体験」しかない、という話。
これも、昔からの定番の言葉なんだけれども、
世の中に、「失敗」というものは、無い。と。
「成功」と、「体験という学び」しか、ないんだと。
この言葉には、いつも救われるよね。
ああ、あのとき自分が発したあの言葉、
失敗したかな、と思うことが、
私も度々あるけれど、
これ、失敗じゃない。
失敗した自分を責めたりしなくていい。
これも、体験でもあるし、学びでもある。
そして、
その、なんか上手くいかなかったことを、
相手は、みんなは、受け入れてくれるだろう。
良い具合に解釈してくれるだろう、
と、
信頼することが出来る、という体験の積み重ね。
半分は、この体験をしに、私は
岡山に通っているような気もする。
はき捨てるほど失敗してもいい。
失敗しても失敗しても、
大丈夫なんだ。
あ、やっぱり、大丈夫だった。と、受け入れられる体験。
ありのままの自分を出せる場。
体験をしながら学び、学び、
次に積み重ねて行く。
そういう体験を重ねているうちに、
いつのまにかに、自分の自然な言動も変わっていって、
自分の心が安定して、
自分の事も、人の事も、許せるようになってくるのかもな、と思った。
岡山に通い始めてもうすぐ6年。
いつのまにかに自分は、随分変わったようだ。
私は、何よりも、誰よりも、夫が変わったと思っていた。
それは、私が変わったから夫も変わったのだと思っていた。
それが、昨日、夫は、
「(自由に生きる方法を)十数年かけて、●●さん(=私)に伝授しました(^0^)」
と得意そうに言っていた!!。
そう言われてみれば、そうでもあるのかもしれない。
STEPで私が変わったのもあるし、
それと同時に、
夫という、自分とは全く違う思考回路を持つ存在に、
私はたくさん衝撃を受けてきた。
「世間の常識を外していいんだ」
「外せ外せ」「まだまだ外せていない。もっと外していい」
って言葉で言われたわけじゃないけれど、そんな風な感じのことを、ときにはバトルを繰り広げながら(笑)、展開してきた。
それでも常識にずっとしがみついていようと
頑なに昔からの教えを守ろうとしていた私を、
引きはがそう引きはがそうとしてくれ、
やっと、何か、最近、
引き剥がれて、何の罪悪感もなくなってきた気がする。
気が付くと、
世間の常識とは全然違う、
へんてこな家になっていたけれど(笑)、
そこに暮らす人たちはとても幸せで。
あぁこれでいいんだ、という暮らしができている。
世間の常識よりも、自分たちの心地よさを最優先に生きているから、
あまりにも世間の常識と違いすぎて、
時々不安になりそうになるけれど、
そうなると、岡山STEPに行くと、
もっとぶっ飛んだ、それでも大丈夫だと証明してくれる生き証人がいるので(笑)、
あぁ、やっぱり大丈夫だと、
また安心して、
居心地の良い変な家(笑)に帰れるのです。
ほんま、好きにしか、生きていない(^0^)。
それでも、この世は大丈夫みたいな気がする。