「お母さん」が、
実は
最初からずっと、
幸せだった。と、認めること。
素晴らしかった。と、認めること。
ダメダメなところも含めて全て、
全部OKで、そのままで愛される存在だった。と、認めること。
こうしたとき、
自分が幸せになることを、自分に許すことができ、
ありのままの自分を受け入れることができるようになるのかもな、
と思った。
どんな風に見えていたとしても、
おかあさんは、もし、「かわいそうだった」とか「ダメダメだった」「苦労していた」
ように見えていたとしても、
それは、私がそう見ていただけであって、
本当にそうだったとは限らない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれないし、
どっちでもいいのなら、
都合の良い方に思っていた方が、シアワセかも(*'▽')。
そして、「お母さん」になった私が、
幸せそうに生きることで、
子に、どれだけの可能性を引き渡せるか!とか思うと、
ワクワクするねヽ(´▽`)/
お母さんが、お母さんのお母さんを、
「シアワセだった」と塗り替え、
そのまたお母さんがそのお母さんを「シアワセだった」と塗り替えていったら、
先祖も子孫も、みんな「シアワセ」になるじゃん!ヽ(´▽`
もしや、シアワセになる罪悪感って、
苦労して命を紡いでくれた先祖(母親)に対し、
自分の世代だけシアワセになって悪い・・
っていう思いがあったからなのか!?
それだったら、
先祖に引け目を感じることで、
子孫も先祖もみんな不幸にしてしまうより(≧w≦)、
「母ちゃんシアワセだった」と塗り替えて、
子孫も先祖も自分も、みんなシアワセにしてしまったほうが、
よくね!?ヽ(´▽`)/
その方が、ご先祖様もきっと喜んでくれるべ!?
とか思った!
そして、私がいくら「シアワセそう」に暮らしていても、
それを、
子が、どうとらえるかは、子の好き好きで、子の勝手なので、
もしかしたら、子が思春期になったら私は、「カワイソウでダメダメな母」(笑)
と評されることがあるかもしれないけれど、
そうなったとしても、
カンケー無いわな!!ヽ(´▽`)/
私が勝手に自分の母親像を作り上げたのと同じように、
子がどんな母親像を作り上げようと、
それは、子が自分のために、自分の都合のために、
作り上げる世界。
私の世界とは別。
だから、私は私で、
自分の人生を世界を、面白がって、楽しがって、
生きていくだけヽ(´▽`)/。
なかなか演技のうまい、
女優なお母さん多いからね~。本人さえ気づいていない可能性の高い演技。
まんまと騙されておったわ(≧w≦)。
今は。肩すかしくらった感覚^^。
めっちゃ幸せで、めっちゃ愛されとったやん。めっちゃ幸せやん。
過去も今も、ずっと。
母から、「ばあちゃん(=母の母)は、苦労ばかりの人生だった」と
山ほど聴いた。
その時期、母は、それを持っていたかっただけなのかもね。
苦労の連鎖、
大変でぇ~。大変でぇ~の連載は、
もう要らんなヽ(´▽`)/。
「お母さんも、自分も、シアワセでそのまんまで素晴らしい」
それを認めたくないときは、
それを認めないことで、「何か」を自分が得ていて、
それを手放したくないとき。
「お母さんも私も、実はずっとシアワセ」って認めてしまったら、
今得ている何かの特権を失ってしまうのではないかと、
恐れているから。
「『不幸であったら』愛される」だとか、「『苦労していたら』許される」だとか、
自分に条件をつけているから。
「不幸であってもなくても」「苦労していてもしていなくても」
どっちだって『愛される』ヽ(´▽`)/。
どっちを選んでも大丈夫だよ~!って、
そこに気づくだけ。
昔は、
不幸になることが、
苦労することが、
大変な思いをすることが、
人に愛される最善の方法だと勘違いしていたなぁ(≧w≦)。
シアワセそうにしていたら、
放っておかれる、お母さんを兄弟に取られる、って思ったのかなぁ。
幸せそうにしていたら、
「この人は放っておいて大丈夫!」と、
放っておかれる?孤独になる??
実験してみたら、
イヤイヤ反対だった!
シアワセそうにしていたら、
同じようにシアワセそうな人が
周りに集まってきて、
同時に、
今まで周りに居た人も連鎖してシアワセになるだけヽ(´▽`)/。
なんか、なんとなく、
お墓参りに行きたくなったかも^^。
お盆はもう少し先だけどね。
これ読んで、そんなことを思いました(^-^)。
「お父さん」じゃなくて、あくまでもキーは、「お母さん」なんだね。