気が付くと、いつの間にかに、
・怒らなくてもいい、
・問題を、わざわざ探さなくてもいい
というのが当たり前の生活になっている、ということに気づいた。
心配事、問題事を、
わざわざ、探してこなくても、いいし、
わざわざ探して解決することに生きなくても、
大丈夫なんだ、ということ。
こんな世界が、あったんだなぁ、って。
ふと気づくと、
だんだん、
困らなくなってきている自分が居た。
「問題を解決する究極の方法は、問題を問題にしないこと。」
この言葉と出逢って、
私の中で、問題事は、99%ぐらいが無くなったような気がする。
この言葉と、もう一つ、私のいつも使っている、
「人は、見たいように見て、理解したいように理解する。」
って
この二つが、私の中での最強コンビ。
これに、「私の周りはみんなダイヤモンド(笑)」
これを加えると無敵かも。
日々が、ものすごいおだやかに過ごせる。
そうしているうちに、
周りのことを信じすぎて、
困っている風な人がいても、
だんだん、問題にしなくなってきて(笑)、
それって、冷たくない?薄情じゃない?と一瞬思ったりもしたけれど、
それも大丈夫じゃん。と、それさえも問題にしなくなってきたから(^ω^)、
それさえも、問題でなくなってきた。
これって、
「課題の分離」ができるようになってきたってことと、
「目標の一致」が計れるようになってきた、ってことだなぁって思った。
一見、困っているように見える人が居ても、
その人の許可(「助けてもいいよ」or「助けてよ」)
がなければ、
勝手にこちらから助けようとすることは、できない。
差し出がましく、こっちから、
どうにかしようと、する必要ないし、
どうにかしようとしたら、変なことになる(*'ω'*)。
というのが、経験から、分かってきた気がする。
困ったちゃんな様子を見せていても、
それ、助けて!っていう意味じゃないことって、
たくさんあるんだね。
解決策は、自分で見つけて、自分で決めるから、
人に探してもらいたくないし、
人に決めてもらいたくない。
そんなものなのかもしれない。
その人は、それが経験したくて経験しているのだから、
邪魔されたくなかったりする。
その人の命の長さも、その人が、決めて生まれてきている。
そういう前提で生活をし始めると、
日常の中で、
わざわざ、問題点を探さなきゃ!っていう行為をすることが、
どんどん減ってくるんだね。
昔はね、
「生きること=問題点を探してきて改善していくこと」
のように思っていたよ。
だから、問題点、解決しても解決しても、
次々に探していたよ。
探さなくていいって、
こんなに楽なんだね。
そして、問題点、探して潰して行かないと、
ダメになるかと思いきや、逆だね。
もっと向上したい!っていう熱は、問題点以外のところから、
湧いてくる。
この考え方を、変だ!と思う人がいても、
それも、OKだし、
変だ!という権利もあるから、変だと言われてもいい。
変だ!と言われて、へこんでもいいいし、
へこまなくてもいいし、
ほんま、オールOKなんだなぁ、って思えるようになってきた。