滋賀県まで片道4.5時間。
日帰りで行った来たよ。
佐伯さんとは、
「量子論引き寄せ講座」のオンライン授業を全章このブログでアウトプットさせていただいて、
それを講座内メルマガで毎回紹介してもらって以来、
ずっとネット上だけの交流。
このブログでもほぼ毎日のように(笑)記事をシェアさせていただいているくらい、
私は考え方に感銘を受けているのだけれども、
実際にお会いするのは初めて。
Zoomでの対話はあったけれども、
実物にお会いするのと、オンライン授業では、やはり、受け取るエネルギーとパワーの量が全然違った!!
元気を、
たくさん頂いて帰ってきた。
講座内容だけでなく、
会場でお隣となった方との出逢いとか、
会場内でおしゃべりをさせていただいた方、
帰りをご一緒させていただいた方たちの出会い。
これも、このときにしかない、巡り会い。
思い切って、行ってよかった!
たくさんのお土産を持って帰ったよ!
***
では、講座内容のアウトプット。
今回のテーマは、「人生脚本」。
人は、親から受け継いだ人生の脚本
(こう生きるものなんだよ、こう生きるべき、こう生きるのが正解、あなたはこういう人間だ、というようなもの)
を、無意識のうちに踏襲していて、
自分が苦しいだけでなく、それを、子にも連鎖させていることがよくある。
・親
・自分
・子
の連鎖で、枠にはめ、生きづらくなることがある。
親から与えられた脚本の中で生き続けると、モチベーションが低い上に、
親から「認めてもらう」ための人生になってしまう。
その枠に気づいて、外して行ってみようか?
人の評価の中に自分の幸せを見るのではなく、
自分で自分を幸せにできる(=自立)
というようなことがテーマ。
これに私が食らいついたのは、
まさにここ数週間前からちょうど、
この三者の連鎖に引っかかってモヤモヤしていたから。
長年アドラー心理学を学んできて、
「遊びの解放」「横の関係」「コントロールをしようとしない」を子が生まれた時から意識して、
12年間、そうやって子を育ててきたつもりだけれど、
子が中学に上がる直前のこの時期、
それでいいの?
それで大丈夫?
今までやってきたことは、間違っていたんじゃない?
子をコントロールしなければならなかったんじゃない?
解放しすぎたんじゃない?しつけをやらなさすぎたんじゃない?自由にさせすぎたんじゃない?
今までやってきたことは、騙されていたんじゃない?
今からでも遅くないから、どうにかしなきゃ!
って思わせられるような出来事が、たて続けに起こった。
それで急に不安になって、
子をコントロールしようとしたり、
今まで心理学で学んできたことと真逆のやり方に
出たりしたら、もう覿面!!
なんか、これ違うぞ。って思う状況がすぐ起こって、
自分がとても気持ちが悪かった。
やっぱり、コントロールしようとするのはしんどいな、
という結論に達しようとしていた。
後から思えば、今までやってきたことが不安になったのは、
「在る」が見えなくなって、「無い」ばかりに目がいっていたんよね。
そのことに、気づいた。
それでも、やっぱり、大丈夫なのかな大丈夫なのかな、という不安があって、
その不安を払拭するためにも、
「人生脚本」の話が聴きたかったんだ。
人生脚本には、
1)親からの教え(こう生きるものなんだよ)
2)親からの評価(お前はこんな人間だ)
3)親の予言(こうしていたら、こうなるよ)
というものがある。
1)自分の中に「べき」、思い込み、があることに気づき、その「例外」を探してみることで、
思い込みを緩めてみる。
ゲームをすると目が悪くなるという思い込み
↓
(例外)目が悪くなっていない人もいる
必ずしもそうなる、そうである、とは限らない、
と知ること。
●するべき→良いことが起こる
→良くないことが起こる
●しない→良くないことが起こる
→良いことが起こる
緑色の部分が、見落としがちな「例外」。
この「例外」の部分も見つけて行こうという話。
私が思いついた例は、
勉強するべき→頭が良くなる。人生の選択肢が増える
→強要されることで勉強が嫌いになる
勉強をしない→人生の選択肢が少なくなる
→遊びから生きる力を得る
緑色の部分って、確かに見落としがちかも。
2)の親からの評価の反転方法が、目から鱗で衝撃的だった。
・自己評価
と
・親や人からの評価
がずれているとき、苦しさを感じることがある。
自己評価が
・低評価で苦しいのなら⇒高評価にしてみる
・高評価で苦しいのなら⇒低評価にしてみる
例えば、
「自分は心配性である(低評価)」と思っているのなら、
↓ 「心配」の反対は「安心」だから、反転させて、
「自分は安心している(高評価)」にしてみる、
反転した瞬間、私は、何の事が分からずに、一瞬固まった。
自分は安心している。
自分は安心している。
自分は安心したい。
自分は、本当は、安心していたいし、心配なんかしたくないし、安心しているのに、
周囲からの、
「親は心配するべきだ」、「あなたは心配性だ」
とかいう声によって、
自分の中に思い込みができあがってた、ということ!!
自分は、安心したいし、
安心しているんだ!!!と気づいたときの衝撃!!
「自分は心配性」だと思っていたのは、受け継いだ「人生脚本」に過ぎなかったのかもしれない。とね。
もうこれが分かっただけで、今日は来たか甲斐があったと思った。
3)親からの予言というのは、
親を神格化して「こうしたらこうなるよ」という言葉を自分も受け入れたということ。
親の言葉を無条件に受け入れていたということ。
今までの評価のままで、生きなくてもいいよ、という話。
佐伯さんの講座は、
心理学を数学的に解釈して論理的に紐解いたものが多いので、
とても面白いし、分かりやすい。
数学をやっていると、普段からいつもこんな思考の仕方ができるんだろうなと思う。
うちの夫もよくこんな感じの話をすることがある。
今日はこんな解説もあった。
上が「未来」。下が「今」。
「今」の時点から、「A」という選択肢と「B」という選択肢があって、迷っている。
Aの道を選んだとき、起こると予想できる出来事(青い部分)が色々ある。
「この道で、自分が大事にしたいことは?」と考えてみる。⇒これを(あ)とする。
同様に、
Bの道を選んだとき、起こると予想できる出来事(青い部分)が色々ある。
「この道で、自分が大事にしたいことは?」と考えてみる。⇒これを(い)とする。
今現在歩んでいる道が「A」であるとき、
(あ)=(い)ならば、
そのまま「A」の道を歩んだらいいんじゃない?
(あ)≠(い)ならば、
Aの道で(い)を満たせないかな?
または、
Bの道で(あ)を満たせないかな?
この考え方が、めちゃくちゃ面白かった!!
こういうのが、私、大好き(笑)!!
お手軽な例を自分でも考えてみようかな。
ゲームをするかA、勉強をするかB、というとき、
ゲームをするとA、ワクワク感が味わえる(あ)。
勉強をするとB、賢くなる(い)。
(あ)≠(い)だから、
・ゲームをしながらA、賢くなる(い)ものを探す。
→脳トレゲームとかパズルゲームをやるとかいう解決策。
・勉強しながらB、ワクワクする(A)ものを探す。
→学習マンガだとか、実験だとかをやる、という解決策。
ここで、最初から
(あ)=(い)
だったら、何も変えなくてもどちらを選んでも叶っているよね、という話。
ゲームをするとA、ワクワク感が味わえて、賢くなる(あ)。
勉強をするとB、ワクワク感が味わえて賢くなる(い)。
こんな場合は、AでもBでもどっちを選んでもいいよね。
ノートとペンで、自己分析するときも、
こういう図を書いて理解すると、頭の整理が進みやすいかもね。
どろどろした言葉ばっかり吐くより(笑)、建設的な方向に進みそう。
<総まとめ>
全ての底辺にあるのが、
「親の自己受容」。
「親の自己受容」が根底にあって、「家庭が安全基地」になると、
子は安心する。安心すると、だんだん退屈になってきて、
何かをやりたくなる。
知的好奇心が湧いてきて、あれもこれもやりたくなる。
そうなると、あれもこれもやるために、自分で自分を管理し始める。
管理は、コントロールは、
人にしてもらうものではなく、自分でやるもの。
私も、そう思う。
親からの「人生脚本」を、
引き継ぎたい内容のものだったら引き継げばいい。
引き継ぎたくない内容のものは、引き継がない選択をすればいい。
親も子も孫も、
しんどい人生脚本は連鎖させなくていい。
上の世代の評価のためだけに生きるのではなく、
自分で自分を幸せにする力をつける。
そのためにも、個々が、自分を幸せにする能力を持っていること。
人をコントロールしようとするのではなく、
まずは自己受容からなんだな、と思った。
最後に、
「見守り」と「放置」の違い。
見守り=SOSが出されたときに、すぐ助けられるような位置にいること。
放置=SOSが出ても、助けないこと。
助けるのは、SOSが出てからでいい。
声をかけるとしたら、アドラー心理学で良く出てくる、「何かお手伝いできることある?」
ってやつだね。
これ以上のおせっかいは、要らないってこと(^-^)。
以上、こんな感じで講座を学んできたよ。
講座を終えて、一日経って、ふと思ったこと。
この数週間、
アドラー心理学っぽい「やり方」と、その真逆っぽい「やり方」の、
色々なケースを人に調査して回った(笑)のだけれども、
講座で出てきた「例外」の話と同じように、
何事にも例外があるってことだよなぁ。と。
コントロールをしない子育てをして→幸せ(イーシーモード)になる と思っていても
→大変(ハードモード)になる こともある。
バリバリコントロールをする子育てをして→大変(ハードモード)になる と思っていても、
→幸せ(イージーモード)になることもある。
もうこれは、全く、「どうだったらどうなる」、って言えないって思った。
しかも、この幸せと大変の判断をどこでするか、どこで切り取った判定なのか。
判定した後、まだ先どうなるか分からないし、
もう、何が良くて何が悪いかなんて、言えない、と。
「人間万事塞翁が馬」ってやつ。
だから、この理論でいくと、
「アドラー心理学をやっていても、ある地点では、ハードモードかもしれないし、
ある時点ではイージーモードかもしれない」と。
今回自分に起こった色々は、
「その覚悟をしとけよ、という私へのメッセージ(笑)」なのかと思った。
結局、何が正解というわけでもなく、
アドラー心理学が正解というわけでもなく、
それなら、
自分が本能に従って、
自分がこれだと思ったやり方をやるしかないのだと。
そして、人も皆、ご自分の本能に従って選択していらっしゃるのだから、
人のやり方をどうこう言う必要もないのだということ。
人のやり方を見て、不安になったら不安になればいいし、
揺れたら揺れたでまたそれもいい。
戻って来たければまた戻ってもいいし、
違う道を行きたければ違う道を行ってもいい。
結局、好きなようにしかできないし、好きなようにやりなはれ。
ということなんだろうな(笑)。
今回の自分のモヤモヤは、こんな感じで終結させましたわ。
久々の超長文。4500字を超えてしまいましたわ(笑)。
いつものように、講座のアウトプットよりも自己吐き出しだらけだったけれど、
これが私です(笑)。
ああいっぱい書いて楽しかった!ヽ(´▽`)/。