記憶って、勝手に塗り変わるね。
恐ろし!(≧w≦)とか思ったわー。
人を、悲しませたかもしれないと思ったとき、
無意識のうちに、その原因探しをしていて、
「あー!あのときの、あれが悪かったのかも!」
と記憶がよみがえり、
失敗したー、失敗したー。
でも、もうやってしまったことはしょうがない。
次だ次!
とかって自分を励ましていたとき(≧w≦)、
ふと昔のメールを検索してみた。
すると、
自分が思っていたことと全然違った!!
いや、失敗していないじゃん。
いや、でも、これ、もしかしたら、
私の記憶が変わっていたように、
相手の記憶も、そのときのものと違ったものになっているかもしれない。
人は、見たいように見る。聴きたいように聴く。
理解したいように理解する。
私の大好きな(笑)、定番のこの言葉の通り、
人は、自分の都合の良いように物事を見て、
意味づけをし、理解をし、
そしてまたそれは、時間と共に、変化する。
あの日あのときの事実がどうであるか、
もはやお互いの記憶の中では、
全く別物になっている、ということ。
昔の記録を見ていて驚愕したことが、
他にもあった。
子の子育て記録。
楽だ~楽だ~とか思っていたけれど、
0歳とか1歳とかの記録を先日発見してちらっと見たところ、
まぁ、なんと荒波を超えてきていたのか(笑)と、
びっくりした。何にも無かったわけじゃなかった!(≧w≦)
私の中で、しんどかったこと、大変だったことの記憶って、
どんどん塗り替えて行っていたのかもって思った。
それは、塗り替えた方がシアワセだと思ったからなのかも。
過去の、しんどかった記憶を、
いつまでも握りしめておきたければ、
それは、いつまでも握りしめておけるし、
なんなら、何倍にも増悪して(笑)変化させて、
記憶にとどまらせることも出来る。
どっちでも、選べる。
人は、無意識のうちに、選択している。
どう意味づけして記憶するか。
だから、前提が、
「不信感」だらけだったら、
誰が何をしてどんなことを言っても、
「不信感」につながる意味づけの仕方、記憶の仕方になるし、
前提が、「信頼」だったら、
少々のヘマは、良い風にとらえて、
シアワセな意味づけの仕方、記憶の仕方になる。
どっちを選ぶかは、自分が決めている。
誰にもどうすることもできない。
記憶を塗り替えるのも、自分が決めないと、
誰にもできないこと。
記憶を塗り替えたくなったときに、自分でできること。