お気に入りのブロガーさんたちが、
いつもとってもステキなことを発信してくれていて、
ほぼ毎日チェックしているのだけれども、
それがたまに動画や音声のみの形になっているときもある。
ブログの活字だと、
これ!と思った箇所があったら、スクロールを止めて、
そこで何度も文字を眺めながら
頭の中で反芻したり、自分の思考を巡らせたりすることができるんだけれども、
音声や動画だと、
自分の思考のスピードと合致しないときに、
ちょっともどかしい思いをするので、
今回、これは!と思った箇所があったら少し前の所を何度か巻き戻ししながら
活字に落としてみた。
自分の反芻のためにも残しておく^^。
こうしてみると、
活字を自分が読むときって、
自分に主体があることがよく分かるなぁ。
どうでもいいところは、
斜め読みしたり読み飛ばしたり、読むのを止めたりできるし、
ここは!と思ったところは、
止まって何度もゆっくり読み直すことができる。
みんな、きっと無意識のうちにやっているんだろうね(^-^)。
まずは、心屋さんのラジオ、ポッドキャストから。
自分が愛されているかどうかを見張らない勇気。
自分が人を喜ばせられているかどうか見張らない勇気。
自分がやったことに対して相手がどんな反応をするかを気にせずに、
自分のことをしゃべったり自分のやりたいことをやる
これが、心屋さんの「どうせ愛されている」につながっているんだろうな。
もう一本。
本田こーちゃんの動画。こっちはちょっと長いけど。
「相手のシアワセフォルダの中に自分も入る」
これは、相手を喜ばせるという効果もあるかもしれないけれど、
自分が、「聴く」のが楽しくなる方法でもあるな、って思った。
楽しい話の中に、自分も入り込んでいたら、
相手の話に嫉妬したり否定したりする余地って、全く無くなってくるだろうしね。
「聴く」って、相手のための行為だと以前は思っていたけれど、
心理学を学べば学ぶほど、
「自分のシアワセ」=「相手のシアワセ」の図式が見えてきて、
どっちに偏ったりすることなく「=」なんだな、
と思う場面にしょっちゅう遭遇する。
相手を持ち上げるばかりだと、相手は表面上、気分が良くなるかもしれないけれど、
自分が疲れたり、気分が良くなかったりした場合、
それは、「お世辞」や「おべっか」や「気疲れ」に過ぎないのかもしれんな。
相手と一緒に、自分も会話を「楽しんだ」とき、
「話せた」「聴けた」と言えるし、
話し手も聞き手も、満足のいく会話ができるのかもしれんなぁ。
いくら技術を駆使しても、
聴くのが苦痛だったら、
それは「聴けた」とは言えないのかもしれんなぁ。
「相手の庭」の話ではなく、「自分の庭」の話をする。
これは、Iメッセージのことかな。
こうして、「庭」とかイメージすると分かりやすいね。