自然的結末と、論理的結末の章。
「結末」については、もはや、
「相手の事を、信じていたら、相手は勝手に学びたいように学んでくるわな~。」
と、そんな感覚で居る。
「論理的結末」を、「私が導いてやって、相手に学んできてもらおう!」なんてもう思わない。
そんな高度なことは、はなっから私の役割じゃないから、やめた。
やめればやめるほど、私は快適になって、上手くいくのだから、
私にはそれが合っているのだろう。
学びたいことを、学びたい順番に、
学べばいい。
自分も、人も。
そんなスタンス。
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毎度ながら、章立てとは全然関係ないことからの学びが多いので、
そっちも書いてみる。
いわゆる、「良い子ちゃん」や「優等生」気質をやってきた人というのは、
どこの集団に入っても、真っ先に、
その集団の中での先生や、ボス的な存在の人が、
何を望んでいるか、何が好きか、
を素早く察して、
先生やボスに気に入られようとする。
気に入られるから、気が付いたら優等生になっているのだけれども、
リーダー的な存在の人の顔色を伺うのが得意、というか、
気が付いたら、自然に顔色を伺っていたりするんよね。
子供の頃は、家庭においては、そのリーダー的存在は、
「お母さん」だったりする。
お母さんの言うことは絶対で、
お母さんは神みたいな存在で、
お母さんに好かれたい。
お母さんが好きなものを、自分も好きになりたいし、
お母さんに好かれるために、お母さんと同じようなものを好きだと言って、同じようなものを、趣味にしたい。
それと同じように、
どこかの集団に入った時、
その集団を導いている、指導者にあこがれて、
その人と同じような好みで同じような趣味で、
同じようなものに興味を持っていたい。
そうすることで、その人に自分も近づける気がするし、
自分もその人に可愛がられて、
その人のような人になれるような、気がするんよね。
学校の先生が、本を推薦してくれたら、
まっ先にその本を読んで感想を伝えに行ったり。
そんなことをしたら、本を推薦した先生も嬉しいに決まっている。
分かっているから、敢えてそうする。
先生が好きだと言っているものを、自分もやってみる。
そうこうしているうちに、どんどん、その先生に近づいていく。
そのときって、とっても嬉しかったりするんよね。
こんな風に、上へ上へ行こうとするのが、
当たり前で、人の顔色を伺うのが、
伺っていることさえも気づかないくらいに、
当たり前のことになっているんよね。
伺う相手が、
母親から、学校の先生になったり、上司になったり、配偶者になったり、
と、人生のステージで変わって行ったりもする。
でもこれって、
やっているうちに、いつか、限界が来る。
自分は、自分であって、
その、ボスではないのだから、
ボスと一体化することって、無いし、
「自分というもの」の存在が、出てくる。
自分は、他の誰にもならなくてもいい、
自分は自分であっていいんだ、って気づくときが来るのかもしれないね。
真似しているうちに、これは、私も好きだけれども、
先生の、ボスの、ここは、私とは違う。
ここは、真似できない。
というのが、どうしても、出てくる。
そんなとき、罪悪感を持たずに
自分は自分の道を、選ぶ、ということ。
「守・破・離」とよく言うように、、
まさに、「離」の勇気を出すときがくるのだと。
母親と、同じ趣味で、同じ好みで、同じ性格になりたくても、
どうしてもどうしても、
同じにはなれなくて、
それが悲しすぎて、
自分は間違っているのではないか、おかしいのではないか!
治さなければならないのではないか!
と思っていたら、
別に自分も母親もどっちもおかしいわけではなく、
それぞれがそれぞれ自分独特の性格であったというだけなのと同じように、
先生と、ボスと、同じになれない自分を、
悲しく思う必要は、ないのだということ。
ボスや、上の人の顔色を伺うのが当たり前で、
自分があんまり好みでもなさそうなものでも、
相手に合わせて好きに成ろうとして、
頑張ろうとしたりしていたけれど、
別に、そんなことをしなくても、
気に入られて優等生でいなくても、
もういいんだよ。
自分が今、どうしても気が乗らないものを、
気が乗らなくても頑張ってやろうとしなくても、いい。
やってもいいけれど、
やらなくても、いい。
こんなことを、感じました(^-^)。
毎回、ディスカッションの主題とは全く関係ないことを学んでいるという(笑)。