昨日の日記
にコメントをいただいて、
コメント返しをしようとしたら、
また新たな気づきが雪崩のように降ってきて、
コメント欄に書き切れなさそうなので、もう一本ブログに書くことにした(≧w≦)。
気づき1)唯一無二で絶対な正解は、無いということ。
心理学を、色んな所に行って色んな人から、何年も学んできたけれど、
結局、
唯一無二、絶対な正解は、どこにも無いのだということ。
(当たり前のことかもしれないけれど、それを求めて暗中模索するのも人生(≧w≦))
自分がその瞬間その瞬間、どの方向に向かい、何を選択するか、
「選ぶ」。
その選択の足がかりとなる「方法」はたくさんあるけれど、
結局、決めるのは自分。その結果を引き受けるのは、自分。
ただ、それだけの繰りかえしなのだということ。
なるべく転ばないように、痛い思いをしないように、
前もって調べて調べて勉強して、色んな先人の話を聞いて回って
材料を集めても、
集まってきたものは、両極端のものが入り乱れる様々な生き方。
そして、そのどれもが、唯一無二の正解ではない。
そうなったらもう、自分が
何をどう選択したら快適か、生きやすいか、自分に問うて、
自分で決めて、
自分で行動して、
自分で責任を取るしか無い、
ということ。
自分の快適が、人の快適と同じであるとは限らない。
むしろ、自分は、人と違いすぎてドMな変態(≧w≦)なのかもしれない(笑)。
でも、そこに罪悪感を持って、「自分の方法」ではなく「人の方法」を選んだところで、
それが自分に合っていなければ、やっぱり、最後は、「自分の世界」に戻ってくる。
新たな方法を試してみて、その試すことさえも自分が責任を持って、
模索していくこと。
これの繰り返しなんだな、と。
学校の試験のように、マークシートで正解不正解が判定され、
唯一無二の絶対的な答えがある世界もあるけれど、
唯一無二の絶対的な答えが、無い世界の方が、
実は、多いのかもしれないね。
私は、性格的に、提出物を、提出期限よりかなり早く出さないと気が済まなくて、物事を、前倒し前倒しで準備する。
そのことに喜びと達成感を感じるタイプだけれども、
そんな齷齪(←あくせく。こんな漢字!(*'▽'))した生き方をしている人は、
ある集団の中では珍しがられ、
ある集団の中では当たり前だったりする。
所属する集団を移動する度に、なぜか異端感を感じて心が揺れたりしたけれど、自分は、どこに行っても自分であることには変わりないということ。
所属する集団を移動する度に、その集団の多数が選ぶ正解の形が変わる。
どこか一つの正解に、宗教のようにはまることを恐れ、
あちこちの世界を垣間見ようとする私は、
自分は、どこにも染まりたくない、
自分を持っていたい、
という思いが強いのかもしれないな。
いっそ、何かの宗教や一つの集団にはまって、
絶対的なカリスマを崇め、
唯一無二の正解をどこかに据えることができたら、
どれだけ楽かと思うこともあるけれど、
それができないのは、
世の中には唯一無二の絶対的な正解が無いということと、
自分の司令塔は、外には無く、
自分にしかない、ということを、
心の奥底のどこかで、私が信じているからなのかもしれないな。
唯一無二の正解が無いから、
試行錯誤しながら人、は、色んな方向に、変わっていけるのかもしれないね。
楽に生きた方がいいよ~と言うけれど、
楽に生きる方がしんどい人もいる(*'▽')。
どれもが、自分で、選択している、ということ。
違いを、認めるということ。
誰の選択をも、尊重する、ということ。