見たくないものは、見なくていい。
ameblo.(心屋さんのリンクからのリンク。)
そうなのかもしれない。
役割がある。
本当は見たくないのに、
頑張って、私がしゃしゃり出る必要って、
無いのかもしれない。
私より、もっと得意な人がいて、
その人は、無理しなくても、
なんともなく、やれちゃう。
だから、私は、
嫌嫌、怖い怖い言いながら頑張らなくても、
私は私の見たいモノを見て、
私は私の好きなことをやっていたら、
私は私のやれることをやっていたら、
いいんだな。
ということが、分かった(^-^)。
そもそも、
嫌嫌、怖い怖い言いながらも、
私がしゃしゃり出る必要があるかもしれないと一瞬思ったのは、
「相手が、このままじゃ大変なことになるかもしれない」
って、勝手に私が思ったから。恐怖から。
これは、私が、勝手に、問題を創り上げようとしていただけ。
本当は、やりたくない、私の役割じゃ無い。
そう思うから、私は得意な人に、丸投げする。
見たくない世界は、見なくても大丈夫。
出来る人が、どうにかしてくれる。
私は、自分では気がついていなかったけれど、
今までも、そうやって、
ずっと、
守られた存在だったということに気づいた。
自分は、それなりに、サバイバルな世界を、
自分で切り抜けてきたと思っていたけれど、
私が見ていなかった世界、もっとサバイバルな世界はいっぱいあって、
それを見なくてもよいように、
誰かが守ってくれていたし、
自分も無意識のうちに自分を守ってきていたのかもしれない。
怖い世界、サバイバルな世界、
あまり体験していないから、
今、無理矢理体験しなければ!立ち向かって行かなければ!
ってことは、無いんだよね。
みんながみんな、自分の得意な世界で生きていけばいい。
やれるようなことしかやって来ない。
乗り越えられることしかやってこない。
私は、守られた存在だという前提で生きる(^-^)。
昔、私が余計な事柄に首を突っ込みそうになって突っかかって行きそうになったとき、
夫が私にかけた言葉は、たった一言。
「もう寝なさい」
だった。
私と夫は、その頃から、もうほとんど夫婦ゲンカをしなくなった。
夫と私の二人の役割分担が、できはじめた頃のこと。
私の役割は、ただただ、
「楽しんでいること」。
私が幸せで、私が私の人生を楽しめば楽しむほど、
家庭が朗らかになり、
夫も子も、イキイキとしてくる。
私の役割は、
心配したり、問題を解決したり、することではない。
私は、自分がやりたいことだけ、得意なことだけを、
やって、楽しんでいればいい。
それを、学んだし、
日々、ますます、さらにそう感じる。
見たくないものは、見なくていい。
私は「猫で」あっていい。
そうすることが、みんなの一番の幸せなんだと、
感じる。
昆虫館友の会でも、先生が言ってくれていたなぁ。
まだ小さくて、草刈りとかの作業の戦力にならないうちの子に対して、
「キミは、居るだけでいいんだよ~。居るだけで、場がなごむ。」
「そして、紅一点で、来てくれたお母さんも。」
「こうして色んな人がいるのが、いいんだよ~(^0^)」って。
あ、そうそう。
役割分担ができたけれど、
それは、お互いが、苦にならない得意分野を担うから
上手く回るのであって、
相手の得意分野でないことを頼んだときは、
大変なことになったなぁ(笑)。
二人とも得意分野ではない分野は、
外に助けを求めたらうまくいった。
外にも同じように、どこかに、
それが得意で、難なく出来て、
喜んでやってくださる人が居る。
だから、
お互いに、無理をしないこと。
やりたくないことは、絶対にやらないこと(笑)。
そうした結果、きっと外から見ると、
とても変てこな、
常識から大きく逸脱したような家庭ができあがっているかもしれないけれど(笑)、
中に居る本人たちが、それがいいのだから、それでいい。
誰も困っちゃいない。
そのことで、人がフツーに持っているものを、うちは持っていないかもしれない。うちには無いかもしれない。
それでも、うちにはないものを数えるのでは無く、
うちにあるものを数えて暮らす^^。
それでいい。
見たくないモノは、見なくていい。
見れる人が、見て、
どうにかできる人が、
それをやる役割の人が、
いとも簡単に、どうにかできるもの。