「見えない学力」と「見える学力」と。
思い出した!
私、小学生の頃、
奇麗にノートにまとめる作業が、とても好きだったのよ。
ノートに縦線引いて、区分けして使ったり、
色鉛筆を使ったり、図や絵を描いたりしてまとめるのが、得意だった。
小学校の先生にはいつも絶賛され、みんなの前で何度も
披露されたり、
中学生の時の塾でも、最初の頃は褒められて、他のクラスにまで回されたりしていた。
でも、あるとき気づいたのよ。
いくら奇麗なノートを作っても、テストの点にはあんまり結びつかない、と。
こんなことをやっていては、受験に間に合わない、と。
作った直後はよく覚えているからテストの点も良く取れるけれど、
総合テストになると、忘れていたりする。
奇麗なノートを作っている人よりも、
ドリルを反復復習している人の方が、ずっと効率良く点を取れるのだということを知った。
受験業界のテクニックでも、丁寧すぎるノートづくりはご法度だということも知った。
奇麗なノートを作ることに時間をかけていたら、
他の教科をやる時間も無くなる。こんなことをしている場合じゃない!
そう気づいてからは、
奇麗なノートを作るのを止めて、
ノートは、スピード重視の、書き殴りのような形にした。
奇麗なノートを作っても意味がない、という人の言葉に、
自分も確かにそうだと納得して、
自分の、几帳面で丁寧だった性格を封印した。
そっち方面の能力を研鑽することは、止めた。
私は、今となっては面倒くさすぎて、
とてもあの頃のようなノートは作れない。
こんな風に、点数だけに拘った学習をしていると、
性格まで、変わっていくのかもしれないな。
「見えない学力」というものが、在ること自体、
忘れてしまいそうになる。
在るのに無いと思っているから、自分の中ではますます「無いもの」として、認識される。
・・・でもね、普段、点数争いの受験戦争を乗り越えてきた人ばかりと接していて、
その人たちが素晴らしい人たちばかりだったりすると、
やっぱり、「見える学力」も大事なのかな、って思ったりもする。
「見える学力」を付けるためにする努力も、すごいものだと思う。
「見える学力」を付けた人が、見えない学力があんまり無いのかと言われたら、
見えない学力も、持っていらして。
物事の「優先順位」を的確に判断して、効率よく、
問題ないように物事を進めていく能力が、抜群だったりする。
どちらがいい悪いという話ではなくて、
とりあえず、私にできることは、
「見える学力」「見えない学力」、どちらにしても、「在る」に
注目することなのかな、って思った。
何かを得ようとすると、何かを失うこともある。
時間は限られているから、
自分が、どんな方向に進みたいのか、
見極めることも大事なのかな。