メルマガ読んでいたら突然自分が登場して驚いた(*'ω'*)。↓
なるほど。確かに、
勉強は、「活かすかどうか」かもしれないなぁ。
学んだことを、「どう意味づけているか」、「どのように理解しているか」、
にもよるかなぁ。
◆例えば漢字。
私は、「漢字で表せる単語」が、漢字になっていないと、
読みにくいし、気持ちが悪いって感じる。
だから、文章を書くとき、何かを書くとき、
それが例え、伝達メモのようなものであっても、
「漢字で表せる単語」の漢字が書けないときは、
必ず調べて漢字に直して書く癖がある。
子どもの頃からずっと。
これは、癖だ。
漢字に直さないと、気が済まない(*'ω'*)。
だってぜんぶひらがなでかいてあるぶんしょうって、
めちゃくちゃよみにくくてうつくしくなくて
よんでいても、なんだかとってもテンションがさがるきがする。
漢字で書くと、自分も気持ちが良いし、カッコイイと思うし、
相手も読みやすいだろうし、スッキリする。
これが、気にならない子にとっては、
漢字を学ぶことの意味や重要度はそれほど高くないのかな。
確かに、気にならないのなら、
漢字で書こうとか思わないし、
漢字を覚えようって気にも、ならないかもなぁ。
「活かす」必要性を最初から感じていないのなら、
「活かそう」って思わないよなぁ。
漢字を覚えようっていう気の無い子に、
ほらこっちの方が、美しいでしょ?
「こっちのひらがなばっかりでは、よみにくいでしょ?」
とか言っても、「別に。」とか返ってきて、
取り付く島がなくなる(〃ω〃)。
使うつもりのない、使う意味を見出せないものを、
意味も分からず覚えなさいと強制されて書き続けなければならなかったら、そりゃ面白くないかもしれないな。
この、「興味」とか、「感覚」とかいうのは、
なんなんだろうね。
どこでどうやって身に着けるものなのかね。
生まれ持った性格でもあるのかね。
何を美しい、気持ちが良い、と感じるかって、感性だもんなぁ。
部屋が散らかっているのが気になる人と
気にならない人が居るのと同じように、
感覚の問題なのかなぁ。
同じように、
知らない言葉を聞いたら意味を調べたくなるし、
知らない地名を聞いたら地図で調べたくなる。
ノートをつけるときは、必ず日付を書く癖があったり、
知らないことがあったり分からないことがあったら、
知りたいと思うし、分かりたいと思う。
今、何が必要かな、どうやったらもっと上手く行くかな、って常に考えている。
そういうのを、
当たり前のように癖でやっているのと、
それを、強制された義務だと思って無理矢理やるのとでは、楽しさも全然違うかもしれないな。
なんだろうな。
私は、せっかく学んだのなら、活かさなきゃ、
勿体ない、って思ってきた。
使わなきゃ勿体ないって。常に思っている。
せっかく学ぶのならば、楽しく学んでも
つまらなく学んでも、同じ時間なのだから、
せっかくなら楽しく感じるように学びたいと思ってきた。
それが良い悪いではないし、
正しい正しくないではないのだけれど、
せっかく時間を使って学んだのだから、
その時間に得たものを、無駄にしたくない、
どうにかして利用してやろう、
っていう野心が、自分の中に、
ずっとあったような気がする。
そして、今も、常にある気がする。
◆そして次に、数学。
私が、数学をステキ!って思うのは、
数学自体の不思議な世界が面白いっていうのもあるけれど、
数学をやっている人の文章って、
とても読みやすいって思う、というのもある。
バリバリ文系の人の書く文章と、
数学を専門としている人の書く文章って、
やっぱり違って、
数学をやっている人の文章って、
理路整然として、とっても読みやすいんだ。
佐伯さんの文章も、その一つ。
物事を、冷静に、論理的に組み立てて
考えるから、
あんまり感情的になったり、
パニックになったりはしない。
一つずつ、絡まったものを溶かしていくような
物事の考え方をされる方が多い気がする。
数学は国語だし、国語は数学でもあると私は思う。
丁寧に、丁寧に、説明していく作業は、
数学も国語も同じで、
両方とも、
人と人とのコミュニケーション能力、
問題解決能力に繋がっていると思う。
数学力は、人間力に繋がっていると思う。
生きる力や、考える力、性格を、作っていくんだと思う。
勉強が、人の性格を作っているのか、
人の性格が、勉強をする姿勢を作るのか、
どっちが先なんだろうね。
どっちにしても、私は、
役に立たない勉強なんて、無いって、思うんだ~。
勉強に限らず、
全ての経験が、そうなのかもしれないね。
これをね、人に伝えても、
もともと学び好きな人だったら一緒に盛り上がるけれど、
そうでなければ、逆効果なような気がすることもよくある。
こういう感覚って、人に教えてもらって知るものではなく、
自分で気づいて、自分で勝手に意味づけしていくものなのかね。
別に気づかなくても、意味づけをしなくても、
いいのかもしれないし。
私は、こういう感覚を、嬉々として表現して、人と分かち合いたくなるんだけれども、
必要性を感じていない人にとっては、
ただ、暑苦しくてウザイだけなのかもしれんなぁ(*'ω'*)。