高校生の頃、男の先輩に、
「お前たちは傷の舐め合いをしとるだけじゃ」
と言われたことがあって、印象に残っていた。
それが、20数年の時を経た今、
とても腑に落ちた。
女の世界は、時に、「傷の舐め合い」となる。
自分の不幸・ふがいなさを話し、
聴き手はそれと同じような不幸を話し、共感し、
お互い、不幸を感じ切った後、
いや、でも、○○があるから、あなたは幸せよね。
いやいや、あなたも●●があるから、幸せよね。
うんうん。お互い、頑張りましょうね。
で終わる。
そしてまた次の機会には、
不幸話から始まり、
最後は、いやいや、やっぱり幸せよね。
で終わる。
それをするために、
最初から、幸せ話を持ってきてはいけないし、
成功話を持ってきてはいけない。
不幸話は、解決するためにあるのではない。
傷をなめ合うためにあるから、
解決策は不要だし、
解決しては、むしろ困るのかもしれない。
そして、そういう人は、
そういう人を求め、そういう人たちで集まり、
そこで幸せな世界を創っている。
だから、それでいいのだと。
世の中は、女の世界は、全てそうなのだと思っていたが、
大人になって、社会に出て、
夫や、男脳の女の先輩や、幸せ街道まっしぐらな友達が増え、
その人たちには、
不幸話よりも、幸せ話の方がウケるので、
驚いた。
昔、身に着けた、不幸話前提の会話が、
通用しなくて、まるで逆に、ひっくりかえって、
幸せ話をすればするほど盛り上がり、
不幸話をすればするほど、なんだか痛い目に遭う(笑)。
前と逆になった。
前は、
不幸話をすればするほどかわいがられ、大切にされ、愛されると感じていた。
自慢話は嫌がられるので謙遜謙遜に続く、不幸話。
それが全く真逆になったのだ。
しばらく、真逆の世界にどっぷり浸かっていて、
ふと、昔の世界の人と接した瞬間に、気づいた。
不幸ありきの世界。
不幸自慢の世界。
こういう仕組みだったのか!と。
不幸ありきの世界の人は、
私がどんどん幸せになって、強くなって、くよくよしなくなる姿を見て、
離れて行った。
それを見て、私は、何度か引き戻りそうになったけれど、
今、はっきりと気づいた。
高校の時の、あの先輩の言葉。
まさにその通りだったと。
今、自分に何ができるか。
今の自分の役割は何か。
それを考えて建設的に行動をしていらっしゃる先輩だった。
向上することを、目的としている。
一方、
「傷の舐め合い文化」というものは、
そもそも、改善や、変革を、目標としていない。
共依存、その場での安心感。変化しないこと。を望んでいる。
それも、それでいいんだ。
その状態を幸せに、心地よく感じているのだから。
ただ、この二つを混同すると、しんどくなる。
自分は良くなりたい、改善したい!と思っているのに、
「傷の舐め合い文化」の中に入っていては、
お互い足を引っ張り合って、そこから抜けることができない。
「傷の舐め合い文化」の外にいる人は、
傷の舐め合い文化の人が、
不幸やふがいなさをさらけ出した時に、
解決策を提示して、
さらに、相手を傷つけてしまう。
この人が欲しがっているのは、解決策ではなく、
傷を舐めて欲しいだけだし、
自分と同じような不幸な話なんだ。
その人たちに愛されようと、
自分も不幸探しをしなくてもいい。
お互いがお互い、
自分の住み心地の良い所で住めばいい。
そういうことなんだと、気づいた。
「傷の舐め合い文化」は、
自分の大変さを分かってもらいたい。
それが一番の目的なのかもしれないね。
どちらがいい悪いではない。
どちらも処世術なんだろうな。
自分が、どこに所属したいか。
それだけなんだろうな。