今回のエピソードから、
私が感じたこと。学んだこと。
それは、
やっぱり、
表面的に見えている事柄は、
「ダ三-」だということ。
物事の事実関係、
何が正しいか、どっちが正しいか、
誰が言っていることが正解か、
誰が間違っているか、
それは、人の数だけ価値観があるから、
人の数だけ正解がある。
そこで争っても仕方がなくて。
そこで「ジャッジしない」。
表面的な部分を見て、
誰が正しいか、「分析」することに、
それほど重要な意味はない、ということ。
警察調書を作るように、
事実関係を、
問い詰めて問い詰めて明らかにしなくても、別にいいということ。
相手が何を伝えたがっているのか、
聴くだけでいい。
その内容が、正しいかとかは、あまり重要ではないということ。
誰かを罰するために、
誰かを悪者にするために、
物事は起こっているわけじゃないから。
そして、
私の出来ることは、
やっぱり、
誰が正しいかとか、
どれが正解だとか、
ジャッジすることではなく、
私は私の得意なことをやるだけ。
ニガテなことを、
これを機会に克服しなきゃ!!!私がやらなきゃ!!と、
無理して頑張らなくてもいい。(頑張りたい時期、頑張る必要がある時期には頑張ってもいいけれどね)
自分がニガテな分野については、
それを得意とする人を探してきて、
采配する。
お願いして、やってもらう。
ここに、今の私は、全力を注げばいいのだと(≧w≦)。
そしたら、やってもらえたら、
ものすごい感謝の気持ちが自然に生まれるしね。
私がどうにかしてやらなきゃ!!!って腕まくりして出ていく必要って、
最初から、無いんだ。
私が腕まくりして出ていくと、
私が勝手に混乱してめちゃくちゃにして、
もっともっと面倒くさいことになるだけだしね(*'ω'*)。
私が動くと、
世界平和を乱すことになるので(笑)、
私は、動いてはいけないんだ(笑)。
これで世界に平和が訪れる(笑)。
でもほんま、最近、特に思う。
自分の得意不得意を、自分でしっかり認識すること。
これを意識するだけで、
生きるのって、めっちゃ上手くいくようになる気がする。
私は、
こうして、文章を書くのが好きだけれども、
人前でしゃべるのは、得意ではない。
だから、書く分にはいくらでも書いて表現するけれど、
しゃべらなければならない場面は、それが得意な人に譲った方が、
私も譲られた方も、幸せ。
私は、
自転車に乗るのは得意で何時間も漕げるし、市内どこでも自転車で現れるけれども(笑)、
車の運転は苦手なのでしない。
私が車を運転すると、世の中の交通安全平和を乱してしまうので(笑)、
私が車を運転しないことで、
世界平和に貢献しているんだ(笑)。
だってきっと私が車を運転すると、
きっと何かにぶつけてモノを壊し(笑)、
被害者は家に帰ってイライラを奥さんにぶつけ(笑)、
奥さんはお子さんにイライラをぶつけ・・・と、
連鎖連鎖で世界平和が乱されるでそ!!!(≧w≦)
私は、車の助手席にちょこんと乗せてもらっている方が、
誰もが納得する(≧w≦)。
ここ、私は頑張らない所。
それと同じように、
・人にものを教えようとすること(先生役をしようとすること)
・人を導こうとすること
なんかも、私の得意分野じゃない、ということを、
とてもとても私は自分で認識したので、
これを手放すようになってから、
日々の生活が各段に、楽になってきた。
ずっと昔から、実は、
子どもの頃から、この自分の性質には気づいていたのだけれども、
寸での所で、
認めていなかった。
認めてはいけないような気がしていた。
だから、なかなか認められなかったし、観念できなかった。
それを、最近、観念したので(≧w≦)、
なんか物事が一気に、うまく回り始めるようになった気がする。
私は、「指導者」ではなくって、
どちらかというと、「表現者」の方なんだな、と。
というわけで、こうして、好き勝手「表現」しているのです(*'ω'*)。
「表現」するのって、めっちゃ楽しい!!!ヽ(´▽`)/
一つの事柄から、色々学んだでしょ?^^
田んぼに落ちた車の図(笑)。